大判例

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最高裁判所大法廷 昭和22年(れ)119号 判決 1948年3月12日

主文

本件上告を棄却する。

理由

辯護人西村真人上告趣意第一點は「原判決は法令の解釋を誤りて適用した違法な判決である即ち原判決は被告人に對し刑法第百九十九條同第二百條を適用して死刑の言渡をしたがこれは憲法違反である何となれば新憲法第三十六條は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は絶對にこれを禁ずる」と規定している而して死刑こそは最も残虐な刑罰であるから新憲法によって刑法第百九十九條同第二百條等に於ける死刑に關する規定は當然廢除されたものと解すべきである然るに原判決は被告人に對し新憲法によって絶對に禁止され從って又當然失效した刑法第百九十九條同第二百條に於ける死刑の規定を適用して被告人に死刑を言渡したのであるから法令の解釋を誤りて適用した違法な判決として當然破毀を免れざるものと信ず」というにある。

生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。死刑は、まさにあらゆる刑罰のうちで最も冷厳な刑罰であり、またまことにやむを得ざるに出ずる窮極の刑罰である。それは言うまでもなく、尊厳な人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去るものだからである。現代国家は一般に統治權の作用として刑罰權を行使するにあたり、刑罰の種類として死刑を認めるかどうか、いかなる罪質に對して死刑を科するか、またいかなる方法手續をもって死刑を執行するかを法定している。そして、刑事裁判においては、具體的事件に對して被告人に死刑を科するか他の刑罰を科するかを審判する。かくてなされた死刑の判決は法定の方法手續に從って現実に執行せられることとなる。これら一連の關係において、死刑制度は常に、国家刑事政策の面と人道上の面との双方から深き批判と考慮が拂われている。されば、各国の刑罰史を顧みれば、死刑の制度及びその運用は、総ての他のものと同様に、常に時代と環境とに應じて變遷があり、流転があり、進化がとげられてきたということが窺い知られる。わが国の最近において、治安維持法、国防保安法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法及び戰時犯罪處罰特例法等の廢止による各死刑制の消滅のごときは、その顕著な例證を示すものである。そこで新憲法は一般的概括的に死刑そのものの存否についていかなる態度をとっているのであるか。辯護人の主張するように果して刑法死刑の規定は、憲法違反として効力を有しないものであろうか。まず、憲法第十三條においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に對する国民の權利については、立法その他の国政の上、最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に同條においては、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に對する国民の權利といえども立法上制限乃至剥奪されることを當然豫想しているものといわねばならぬ。そしてさらに、憲法第三十一條によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手續によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明かに定められている。すなわち憲法は現代多數の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである。言葉をかえれば、死刑の威嚇力によって一般豫防をなし、死刑の執行によって特殊な社會惡の根元を絶ち、これをもって社會を防衛せんとしたものであり、また個體に對する人道觀の上に全體に對する人道觀を優位せしめ、結局社會公共の福祉のために死刑制度の存續の必要性を承認したものと解せられるのである。辯護人は、憲法第三十六條が殘虐な刑罰を絶對に禁ずる旨を定めているのを根據として、刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。しかし死刑は、冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり、また冷厳な刑罰ではあるが、刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同條にいわゆる殘虐な刑罰に該當するとは考えられない。ただ死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に殘虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを殘虐な刑罰といわねばならぬから、將來若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき殘虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六條に違反するものというべきである。前述のごとくであるから、死刑そのものをもって殘虐な刑罰と解し、刑法死刑の規定を憲法違反とする辯護人の論旨は、理由なきものといわねばならぬ。

同第二點は「原判決は審理不盡の違法がある即ち被告人は本件犯行當時精神障礙者ではないかとの疑顕著なものがあるこれを記録に徴すると左の如くである(一)問(裁判長)「先ニ言ツタ様ニ母ヤ妹ガ食糧不足ノ事ヲ辛ク當リ被告人ガ真面目ニ働カズソレニ米ヲ取ツタ事等喧シク云ツタトシテモソノ爲メニ殺スト云フ事ハ普通人ニハ到底考ヘラレヌ事ダガ他ニ事情デモアツタカ」答(被告人)「他ニハ別ニアリマセンデシタ」トノ記載(記録第一七七丁表)問(裁判長)「……其ノ原因ハ被告人ニアルコトデソレガ爲メ殺ス氣ニナルト云フノハ普通考ヘラレヌ事ダガドウカ」答ヘズとの記載(記録第一七七丁裏)(二)檢事はその論告に於て被告人は「一見精神ニ異常ヲ來シ居リタルニ非ズヤト疑ハシメルモノアリ云々」との記載(記録第一八六丁裏)(三)辯護人が辯論に於て被告人は「常時一種ノ精神病ニ冐サレ居リタルニ非ズヤトノ懸念ヲ生ゼシムルモノアリ」との記載(記録第一八七丁表)抑々被告人の行爲當時に於ける精神状態の如何は事実裁判所職權を以て調査を爲すべき事項に屬するのであるから本件の如く被告人の精神状態に付き顕著なる疑ひある場合は當然進んで職權を以って鑑定人の鑑定に附するか又は裁判所自ら之を調査して被告人の精神障礙の有無、程度を判定し刑法第三十九條に該當するや否やを決しなければならぬ然るに原判決はこの擧に出でず漫然被告人を死刑に處したのは審理不盡の不法あり此の點に於て破毀を免れないものと信ずる」というにある。

しかし、記録を精査しても、本件犯行に際して被告人に精神障礙のあったことを疑うに足りる事跡がなく、原審も被告人に精神障礙のないことを認めて判決したのであるから、原審が被告人の精神状態につき鑑定その他の審査をしなかったとしても、審理不盡の違法はなく、論旨は理由がない。

同第三點は「原判決は判決に示すべき判斷を遺脱した違法がある即ち原審に於て辯護人は被告人が「當時一種の精神病に冐され居たるに非ずやとの懸念を生ぜしむるものあり」(記録第一八六丁裏)との辯論を爲し犯行當時被告人の精神に障礙あるを以って法律上本件犯罪の成立を阻却すべき事由たる事実上の主張を爲したのであるから原判決は右の主張に對する判斷を示すことを要するに不拘此の點に付き特に判斷を示すことをして居ないこれは判決に示すべき判斷を遺脱した不法な判決であるから到底破毀を免れないものと信じる」というにある。

しかし、原審公判調書によると、原審辯護人は、公判の辯論において、被告人に精神病の懸念があることを主張したに過ぎず、刑事訴訟法第三百六十條第二項に規定する事由があることを主張したものとは解せられないので、原判決がその點について判斷を示さなかったからとて、判斷を遺脱したものとはならず、論旨は理由がない。

よって裁判所法第十條第一號、刑事訴訟法第四百四十六條により主文のとおり判決する。

以上は裁判官全員の一致した意見である。

なお上告趣意第一點に對する補充意見は、次のとおりである。

裁判官島保、同藤田八郎、同岩松三郎、同河村又介の各意見。

憲法は残虐な刑罰を絶對に禁じている。したがって、死刑が當然に殘虐な刑罰であるとすれば、憲法は他の規定で死刑の存置を認めるわけがない。しかるに、憲法第三十一條の反面解釋によると、法律の定める手續によれば、刑罰として死刑を科しうることが窺われるので、憲法は死刑をただちに殘虐な刑罰として禁じたものとはいうことができない。しかし憲法は、その制定當時における国民感情を反映して右のような規定を設けたにとどまり、死刑を永久に是認したものとは考えられない。ある刑罰が殘虐であるかどうかの判斷は国民感情によって定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに變遷することを免がれないのであるから、ある時代に殘虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反對に判斷されることも在りうることである。したがって国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社會が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた殘虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第三十一條の解釋もおのずから制限されて、死刑は殘虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。されば、死刑は憲法の禁ずる殘虐な刑罰であるという理由で原判決の違法を主張する辯護人の論旨は採用することができない。

裁判官井上登の意見。

本件判決の理由としては大體以上に書かれてい居る處でいいと思ふが、私は左に法文上の根據に付て少しく敷衍して置きたい。

法文に關係なく只漫然と、死刑は殘虐なりや否やということになれば、それは簡單に一言で云い切ることは出來ない。「殘虐」と云う語の使い方如何によってもちがって來る。例へば論旨の樣に「死刑は貴重な人命を奪ってしまうものだから、これ程殘虐なものはないではないか」と云うふうに使う人もある。(假りにこれを廣義の使い方と云って置く)しかし、又「殘虐と云う語は通常そう云うふうには使わないのではないか、虐殺とか集團殺戮とか或は又特別殘酷な傷害とかそう云う樣な場合に特に用いられるので、單純な傷害や殺人に對しては餘り使はれないのではないか」と云えばそうも云えるであろう。(假りにこれを狭義の使い方と云って置く)こんなことを云って居てはきりがない。我々の當面の問題はこう云うことではないので、具體的に憲法第三十六條の「殘虐の刑」と云う語が死刑(現代文明諸国で通常行われて居る樣な方法による死刑の意以下同意義)を包含する意味に使われて居るかどうかと云うことである。(我々の問題は死刑を規定して居る刑法の條文が憲法第三十六條に違反するものとして無效な法律であるかどうかと云うことであり、つまり同條は絶對に死刑を禁止する趣旨と解すべきものなりや否やの問題だからである)そしてこれは純然たる法律解釋の問題だから何と云っても法文上の根據と云うものが重要である。私は前にも書いた通り殘虐と云う語は廣くも狭くも使われ得ると思ふから憲法第三十六條の字句丈けで此の問題を決するのは無理で、法文上の根據と云えば他の條文に之れを求めなければならないと思う。そこで憲法第十三條は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に對する国民の權利については、公共の福祉に反しない限り立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と規定し同第三十一條は「何人も、法律の定める手續によらなければその生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定して居る。これ等を綜合するとその裏面解釋として憲法は公共の福祉の爲めには法律の定めた手續によれば刑罰によって人の生命も奪はれ得ることを認容して居るものと見なければならない。之れと對照して第三十六條を見ると同條の「殘虐の刑」の中には死刑は含まれないもの即ち同條は絶對に死刑を許さないと云う趣旨ではないと解するのが妥當である。(即ち同條は殘虐と云う語を前記狭義に使用して居るので、私は此の使い方が通常だと思ふから右の解釋は字義から云っても相當だと思う)反對説は第三十一條は第三十六條によって制限せられて居るのだと説く。しかし第三十一條を虚心に見ればどうしてもそれは無理なこじつけと外思えない。若し第三十六條が絶對に死刑を許さぬ趣旨だとすれば之れにより成規の手續によると否とに拘はらず絶對に刑罰によって人の生命は奪はれ得ないことになるから第三十一條に「生命」と云う字を入れる必要はないのみならず却ってこれを入れてはいけない筈である。蓋同條に「生命」の二字が存する限り右の趣旨に反する前記の裏面解釋が出て來るのは當然であり憲法の文句としてこんなまずいことはないからである。他に第三十六條が絶對に死刑を禁止する趣旨と解すべき法文上の根據は見當らない。

以上は形式的理論解釋である。現今我国の社會情勢その他から見て遺憾ながら今直ちに刑法死刑に關する條文を盡く無效化してしまうことが必ずしも適當とは思われぬことその他実質的の理由に付ては他の裁判官の書いた理由中に相當書かれて居ると思う。最後に島裁判官の書いた補充意見には其の背後に「何と云っても死刑はいやなものに相違ない、一日も早くこんなものを必要としない時代が來ればいい」と云った樣な思想乃至感情が多分に支配して居ると私は推察する。この感情に於て私も決して人後に落ちるとは思はない。しかし憲法は絶對に死刑を許さぬ趣旨ではないと云う丈けで固より死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから、若し死刑を必要としない、若しくは国民全體の感情が死刑を忍び得ないと云う樣な時が來れば国會は進んで死刑の條文を廢止するであろうし又條文は殘って居ても事実上裁判官が死刑を選擇しないであろう。今でも誰れも好んで死刑を言渡すものはないのが実状だから。

(裁判長裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上登 裁判官 真野毅 裁判官 庄野理一 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介)

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